※はてな移行後、完全に構成が崩れてしまい、現在、修正作業中です。

個人旅行に変えたきっかけ

【人生観を変えた旅行】
2005年から2009年まで、5回の個人旅行は私の人生感を大きく変えた。
それまで、自分が海外でこれだけ自由に活動できるとは考えもしなかったし、この5回の渡航で経験した内容は、添乗員に引率されて訪れるパック旅行では、到底、成し得るものではなかった。
その代表的なものが、日本人が行くことが稀だったクラブフィールドを含めたローカルスキー場を数多く滑った事であり、観光ルートから大きく外れたエリアのドライブであった。
 

イメージ 1

それを如実に表現したものが、左のNZドライビングトラックマップである。2002年から2009年までの間、何らかの形で通過した場所を全てマーキングした地図だ。
 
この地図を見て改めて感じるのは、2002年から3年間に訪れたエリアというのは、クイーンズタウン~ワナカ近郊の、NZでも極限られた狭い地域だったということだ。
 
一方、2005年からの5年間に訪れた場所は、ざっと見積もっても、それまでに訪れたエリアの20倍以上はあるだろか・・・。ほぼカンタベリーの全域を走り尽した状態である。
 
これらを、風邪でダウンした1日を除いて全て運転している。
また、大ざっぱにその約半分は単独行動によるものであった。この地図上で運転できなかったのは、クイーンズタウン近郊の各スキー場への道、クイーンズタウン~アロータウン。クイーンズタウン~カードローナ。そしてクイーンズタウンクロムウェル~アレクサンドラ~パーマストンまでである。
 
【個人旅行への布石】
きっかけは2004年にさかのぼる・・・・・
 
NZに何度も行くと、毎回、帰国後、周囲からいろいろな質問を受ける。食べ物はどうなのか?名物は何なのか?人々の暮らしはどうなのか?初めてNZを訪れた当初は、見るもの全てが珍しく、特にスキー文化に関してはカルチャーショックに近い状態だったが、3回目を迎える頃には新たな思いが芽生え始めていた。
 
長年、相方であったスキー仲間のSAK氏は、これまでに幾度となくNZを訪れているNZスキーの大ベテランで、既にSAK氏なりのNZスキー旅行のパターンが出来上がっていた訳だが、そこに私が便乗して3回のNZ渡航となった。特に初回の2002年に関しては、SAK氏のお蔭で、初海外スキーに加え、Mt.クックエリアのヘリスキーも経験することができた。ヘリスキーは、私にとって長年の憧れであり、スキー人生の一つの目標だったと言って良い。これらはSAK氏の、いわゆる引率無しには果たせなかったといえる
 
それまで、SAK氏の引率で訪れていたクイーンズタウンは、NZ観光のメッカと言える国際的にも有名な観光地だ。多少、ざわついてはいるものの、自然豊かな、大変美しい町である。近隣のグレノーキーやアロータウン、ワナカも自然豊かで申し分無い。
 
一方、クイーンズタウン周辺で見聞することが、そのままNZの人々の暮らしぶりとは言えないのも事実である。
これは、浅草や白川郷に行った人なら良くわかるはずだ。浅草や白川郷は紛れもなく日本であり、人々の暮らしもあるのだが、そこでの暮らしは一般基準の日本とは程遠いものである。これら観光地を訪れて日本を知った思うのは早合点だし、間違いでもある。同様のことがクイーンズタウンにも言えていた。
 
加えて、我々が行っていたのは日本国内のスキーの延長で、滑る場所がNZのスキー場という以外、日本と大きな違いは無かった。夜の食事は、毎回、レイクサイドパレスの中華料理で、ホテルの部屋に戻ると、後は疲れて寝るだけ。バブに繰り出して騒ぐゆとりも無かった。だからと言って、観光客が大勢集まる観光スポットに行く気など、さらさら無かった。 ※→思い出のレイクサイドパレスの中華料理
 
NZにスキーに行っているのだから、もちろんそれで良かった。逆に、悪天候などで観光だけで終わってしまうことがあれば、その方が大問題である。
 
話は国内になるが、私自身、2010年までの10年間、ほぼ毎年のように八方尾根で年末年始を過ごしていた。「八方以外にもスキー場はいくらもあるだろうに・・・。」当時、多くの人から良く言われた。しかし、八方遠征に至るまでには数多くの国内スキー場を滑っており、同じスキー場に連続して行くにしても、それには理由があるということだ。つまり、クイーンズタウンに行き続けるにしても、少なくともカンタベリーのいくつかのスキー場と地域を訪れておく必要はあったということだ。
 
【2004年の珍事】
そんなことを考え始めた2004年の渡航も終わり、クイーンズタウンから国内線でオークランドに移動する朝、事件は起こった。クイーンズタウン空港に着くと何やら様子がおかしい。驚いたことに、前夜から降り始めた雪の影響で、フライトが軒並みキャンセルとなっていたのだ。
 
オークランドでは1日の予備日があったので、帰国には支障はなかった。しかし、見えない先行きに、誰もが不安に駆られたのは言うまでもない。2時間近く待たされただろうか?現地添乗員が我々に告げたのは、キャンセルとなった便の乗客全員でクライストチャーチまでチャーターバスで向かうという話だった。日本に帰る我々は、明日の夜明け前の飛行機でオークランドへ移動、国際線に乗り継いで、日本に帰国するのだという。
 
クーンズタウンからクライストチャーチへバスで移動・・・距離にして約470km、5時間以上の長旅である。これは成田が閉鎖になったからバスで名古屋空港に移動するのとほぼ同じ状態だった。
この突然の出来事に、私は内心喜んでいた。これまで見たことが無いNZの風景に出会えるからだ。
 
【素晴らしいバス旅行】→思い出のバス移動(2004年)
チャーターバスに乗車したのは正午過ぎだった。座席は、補助席も含め全て埋まっていたように記憶している。日本人は我々の他に、年配の夫婦が1組だけだった。
 
クイーンズタウン空港を出て、しばらくヘイズ湖の脇を走る。この道はアロータウンに行った時に一度通っていた。バスはそのままクロムウェル方面へと向かった。カワラウ川に掛かる橋を渡ると直ぐ、バンジージャンプ場があり、まさにジャンプする男性が車窓から見えた。バンジージャンプの発祥はNZだというが、実際に人が飛ぶところを見たのは、NZに来て初めてだった。
 
バスはクロムウェルを通過すると、橋を渡って左に曲がった。のどかな田園風景の一本道を走る。
ほどなくバスは、なだらかな丘陵地帯を過ぎて、山岳地帯に入って行った。水場の脇に柳の木の一種だろうか?独特の繁みが印象的だった。→Googleストリートビュー
 
イメージ 4
走り始めて2時間が経過した頃、山間の不思議な空間を通過した。リンディス・パスという、絵葉書や写真集の題材にも良く使われる名勝だった。
 
実は前年、NZの自分の土産として、バラ買いで5枚の絵葉書を購入していた。その内の1枚が、このリンディスパスだった。他の4枚は、全て訪問した場所の思い出に購入した物だが、このリンディスパスの1枚だけは、その独特の雰囲気に惹かれて手にした物だった。
 
ところが、この絵葉書、たいへん上質で、サイズも普通の絵葉書の倍ほどあった。写真も「作品」と称して良いぐらい出来だった分、驚くほど高価だった。この無駄?とも言える1枚を購入するのに、手に取っては元に戻し・・悩んだ挙句の購入だった事が思い出される。それが奇しくも、翌年、こうして通過することになったのである。
  リンディス・パス→Googleストリートビュー
 
このリンディスパスの風景を目にした時、ある思いが私の心中に芽生え始めていた。そして、オマラマ、トワイゼル、テカポ、フェアリー・・・と、クライストチャーチに続く沿道の風景を車窓から見続けるうち、その思いは強い衝動へと膨らんで行った。 「この道を自分の手で運転してみたい・・・!」
 
午後3時頃、オマラマでトイレ休憩となった。この時、バスをチャーターした航空会社の計らいで、食事は全て無料ということだったが、空腹感は無かったので何も口にしなかった。休憩も終わり、全員が座席に着いて、さぁ、出発・・・という時、なかなかバスが発進しない。そうしている内にバスが故障したという事実が乗客全員に伝えられた。日本の常識では、到底、考えられない話である。ところがこの時も、さほど不安は感じなかった。何とかなるだろう・・・という感じである。
 
情報では、直ぐに代替えのバスが来るのだという。そして30分ほど待つと、どこからチャーターしたのか?本当に代わりのバスがやって来た。荷物は積みかえなくても良いという。朝からハプニング続きだがロスは最小限で押さえられた感じだった。
 
30分ほど走るとバスはトワイゼルの町をかすめるように通過した。車窓から小さな小屋が5軒並んだモーテルが見える。それぞれの小屋に文字が一つづつ、「M・O・T・E・L」と掲げてあった。面白いことしてるな・・・と印象に残った、そのモーテルの左端の“M”の小屋に、翌年、宿泊するとは、この時は夢にも思わなかった。
 
イメージ 3
ほどなくバスは、プカキ湖沿いの道へと進んだ。噂に聞いていた通り、青白い湖面が印象的だった。これは氷河に削られた岩の微粒子が湖水に混ざってこのような色になるのだという。湖面の向こうにはNZ最高峰のMtクックが、その雄姿を見せていた。その少し右手に、2002年にヘリスキーで滑ったエリアが確認できた。当時は向こう側からこちらを見ていた訳で、そこを今こうやって走っているのは、実に不思議な感覚であった。
 
※右の写真は2006年に撮影したプカキ湖。削られた岩の微粒子の影響で、見る角度によって色が変わる。
 
 
テカポ湖を通過する時に、一瞬だけ有名な観光スポットである「良き羊飼いの教会」が見えた。観光地巡りのような、このチャーターバスでの移動に、少々、感動を覚えた。この時点で、既に自分たちが、フライトがキャンセルとなりトラブルの渦中にある事などすっかり忘れて、観光気分となっていた。
 
フェアリーの町の手前で夕暮れとなる。この時は、一面の雪景色と、日没と反対方向の空に見える地球の影が印象的だった。バスは地球の影の方向に向かって走っていた。この時ほど「地球」を意識したことはない。車窓から見える北の空のずっと先に、自分たちが住む日本があるのだ。そして自分たちは、今、日本から遠く離れたNZの大地を走っている・・・。この事実に、ある種の感動を覚えていた。
 
この時はフェアリーは通過しただけであったが、我々がフェアリーを通過する前の週、私のスキーの師である白馬村のTOK氏が、このフェアリーの町をベースに、Mtドブソンスキー場でのスキーキャンプ(A、Bの2班で約2週間)を催行していた。そんな縁もあって、このフェアリーの町はその後も幾度となく訪れることになる。
 
何と言っても、初めての海外の運転で、初めてガソリン給油をしたのは、このフェアリーの町のカルテックスだった。セルフ給油もその時は初めてで、隣で給油していた若いお兄ちゃんに質問すると親切に教えてくれた。
これなら大丈夫・・・この時、個人旅行でやって行けるという確信を持てた思い出のスタンドである。
 
フェアリー以降のドライブは夜間となり、クライストチャーチ市街に入るまでは外灯も無く、車窓からは、ひたすら暗闇が見えているだけだった。しかし、それでも強く印象に残っているものが一つある。それは遠くの山の中腹に見える一点の光だった。その光はかなり強い光で、そこに何があるのか?スキー場でもあるのかな?などと考えていた。ジェラルディンからカンタベリー平原に入り、直線が延々と続く1号線から長時間見えていた。当時はわからなかつたがMtハットスキー場でも無いようだ。今となってはあやふやな記憶だが、Mt.Peelの中腹に見えていた様に記憶している。
 
夜9時を過ぎた頃、やっと、バスはクライストチャーチ市街に入った。路肩に並ぶ外灯の、ナトリウム灯のオレンジ色の光が印象的で、その光の向こうに、平屋の住宅街が淡く照らし出されていた。住宅は概ね平屋で、日本のような2階建てはほとんど見当たらない。ここに至って、初めてNZの庶民の生活を垣間見た思いだった。
 
その夜、どこのどんなホテルに泊まったのか?大聖堂の付近だったという意外、全く記憶がない。おそらくColombo.St 沿いのどこかだったと思われる。10時過ぎだったが、オークランドとはずいぶん印象が違い、土産物店も少なく、多くのレストランは閉店だった。遅い夕食は、この時もSAK氏の選択で韓国料理となった。閉店で選択肢が無かったのも理由であるが・・・。
 
食事の後に、ほんの少し夜の大聖堂を見に行った。大聖堂の広場にあるモダンな金属製のモニュメントが、石造りの大聖堂とは不釣り合いに思えた。
 
余談だが、今回、この紀行文を書くにあたり、当時、どこに泊まったのか?どこの韓国料理店に入ったのか?Googleストリートビューで調べてみた。映像を見ると、工事現場だらけで当時を偲ぶものは見つけられない。2011年初頭のクライストチャーチ地震の被害である。その惨状は、衛星写真を見ても目を覆うばかりである。
クライストチャーチ地震の3か月後、東日本大震災があり、現在も北陸一帯の海岸沿いは復興していない。まさにそれと同じ状況がクライストチャーチ市街の中心部にあった。
 
後に幾度となくお世話になる個人旅行会社、グローバルネットの住所がクライストチャーチではなくなったのも、地震の被害の影響である。今回、上田氏に連絡を取って、そのことを初めて知った。2012年当時、「ようこそ」ページにグローバルネットの紹介記事を書きながら、住所が変わったことに何ら疑問を感じなかった。我ながら少し情けない気がする。
 
【2005年以降の展開】

 
2004年の帰国時に、図らずも、このような素晴らしいバスの旅を経験したことにより、もう一度この道を自分の手で運転したい・・という強い思いが芽生えた。
 
イメージ 2
それに加え、私のスキーの師であるTOK氏が催行したスキーキャンプの際、オプションで訪れたというオハウ・スキー場(コマーシャル)のことを知り、ぜひとも、このロケーションを滑りたいと考えるようになった。
 
それにはTOK師匠のスキーキャンプに参加するのが一番手っ取り早かったのだが、前述の通り、お盆前の催行で日程が全く合わない。加えてオハウは、空港のある主要な町から大きく外れており、日本から行くパックツアーも存在しなかった。
※右の写真はオハウ・スキー場(2009年撮影)
 
 
つまり、オハウを滑り、バスで通った道をもう一度、自分の手でドライブするには、たとえ一人であっても個人旅行を計画するしか方法は無かったのだ。
 
こうして人生初の海外個人旅行計画は、レンタカーを借りて運転、オハウスキー場に一番近いトワイゼルの町をベースにスキーをするという壮大なものとなった。オハウを目的地に選んだことで、バスで移動した道を逆に走ることにもなり、一石二鳥であった。
 
まず、旅費の面でいうと、大韓国空の格安チケットを利用することで、レンタカーやガソリン代、食費、リフト券を含めても、一人当たり24万程度になる見込みとなった。それまで利用していたパックツアーの費用が30万を少し切るぐらい、大手、フェローツアーなどは34万ほどだったから、個人旅行はかなり割安だといえる。
 
この計画を、年末年始の八方遠征の際に相方のSAK氏に打ち明けてみると、意外にもあっさりとOK、同行するという話になった。単独でも行く心構えでいたので、少々面食らってしまう。言い出しっぺという立場もあり、予約などの段取りは私が全て行い、運転も全て私が行うことにした。それでも万が一に備え、SAK氏にも国際免許の取得を依頼した。
 
問題となるのはレンタカーの運転と宿などの予約、そして英会話だった。
車の運転に関しては、NZは日本と同じ右ハンドルで、比較的運転しやすいと聞いていた。レンタカーや宿泊先の予約は現地の個人旅行会社を利用することで解決。残るは英会話だけである。
 
この英会話に関しては、SAK氏に引率されてのクイーンズタウンでの3回は、ろくな思い出は無い。その最たるものが、実は前年の2003年に起こっていた。この事件がなければ、その後もSAK氏におんぶ状態でNZにいっていた可能性はある。また、個人旅行の計画も途中で立ち消えになっていたかもしれない。
 
【もう一つの珍事】
2003年の第2日目、リマーカブルズでスキーを終えたSAK氏と私は、クイーンズタウンに戻るシャトルバスの出発を待っていた。リマーカブルズの名物エクストリーム斜面、「エレベーター」「エスカレーター」を滑り過ぎた関係で我々が最後の乗客となっていた。スキーを積み込み、あとは、最後の乗客である私が乗り込めばバスは出発という状態だった。
 
いざ、バスに乗り込もうとしたその時である。胸元に入れたチケットが見当たらない・・・滑走中にどこかで落としたようだ。荷物を探せば見つかったかもしれないが、バスはもう出発寸前である。荷物は既に積み込んおり、手元には財布しかない。私は顔面蒼白になった。
 
バスの運転手に、状況を伝えようとしても、英語が全く通じない。危機的な状況の中、肝心要の通訳係であるSAK氏は、バスの奥の席に鎮座して私の切迫した状況に気付く様子も無い。
 
しばらく、バスの運転手と会話にならないやり取りをした後、運転手は進展しない状況に見切りを感じたのか?「OK、乗ってもいいよ!」という仕草を見せた。ラッキーである・・・NZにはヒッチハイクの習慣があり、定期運航のバスであっても例外ではない。ヒッチハイク一人ぐらい構わないと考えたのであろう。大らかなNZならではの話だと思う。彼の好意が無ければ、私は荷物も無く、単身、スキー場に取り残されていた。
 
そして、ホテル前でバスを降りる時、運転手に感謝の気持ちを伝えたかったのだが、それすらも上手く行かなかった。チケットを紛失した失敗より、感謝が上手く伝えられなかったことの方が、精神的ダメージは大きかった。
 
後になって聞いたところによると、SAK氏は、私がなかなかバスの車内に上がって来ないことを不思議に感じていたという。おそらくSAK氏も疲れでぼんやりしていたのではないか?
 
【NZからの帰国後】
そんな珍事があった2003年のNZスキーだったが、それは当然の結果だと言えた。
当時の私は、絵葉書を出すのに切手1枚、まともに買うことができない状態だった。もちろん、小さな失敗を何度も繰り返して行けば、次第に英語力が身に付いて行ったはずだが、何かに付けてSAK氏を通訳代わりにしていたのは事実である。この事件は、そんな片翼的な状況が招いた必然的な結果であり、いずれ、シャトルバスに乗れず、本当に置いてきぼりにされる時が来たはずだ。
 
イメージ 5
こんな事件もあり、翌2004年の渡航直前には、駅前留学で有名だった英会話スクール「NOVA」六甲道校で、英会話短期集中トレーニングを受講した。そして、2004年の渡航直後、本格的に英会話を習う決意をする。当時はまだ職業訓練基金の支給を受けるコースが存在した。正確な内容はいずれ調べたいと思うが、途中でコースの変更なども行って、足掛け2年は通った様に思う。実際の負担金は7万程度だったように記憶している。
 
個人旅行に英語は付きものである。この事件を契機にNOVAに通い始めたことが、結果として、私の個人旅行計画を後押しすることになったのだ。
 
 NOVAでの逸話は→「駅前留学とアーサーの家族
 
【稀に見る経験・・・】
この個人旅行は、結果、5回続いたわけだが、特に2006年からの4回は、かなり異質なものだったと言える。
私が先に一人でNZに行き、モーテル泊を続けてマッケンジーを徘徊。クライストチャーチに落ち着いた後に、SAK氏を空港まで出迎えたり、また、先に帰国するSAK氏を、夜明け前に空港まで送って、その後、好き勝手に走り回ったり・・・。はたまた、2003年のNZで知り合ったFJI夫妻をクライストチャーチのホテルでピックアップして、スキー場や観光スポットに案内したり・・・まるで現地ガイドまがいの状態となった。
 
スキーを始めた1989年当初、自分が海外スキーに出かけて、海外でこれだけ一人で動けるとは、想像すらしなかった。ある意味、自分の事でありながら、他人の人生の様にすら思える。
この個人旅行での経験は大きな自信へと繋がったのは事実だ。自分の潜在能力に驚きすら感じる。当時は、こと、NZに関しては、思い描いた願望が次々と実現して行ったように思う。心に夢を思い描くことが人生では大切なのだと強く認識した。そして、2009年頃には、こうやって深みにはまって行く自分が少し怖くなって行った。
 
ある年は、現地5日間で、総走行距離1800km以上を運転した年もあったが、タイトなスケジュールに心理的ストレスも最大級だった。また、運転だけに限らず、ヒヤリとする出来事もしばしば遭遇した。特に個人旅行の場合、帰国の際に、2004年のように国内線のフライトがキャンセルになったり、早朝、空港に向かう途中でレンタカーがパンクしたりすれば、もうお手上げである。ある意味、不測の事態が起こらないことが前提の旅だったと言っても良い。(※)ここまでのトラブルだとNZ人であっても対応は無理だろうけど。
2010年の3度目のモンゴル渡航を契機に、22年務めた会社を辞めてからは、NZには全く縁が無くなってしまった。寂しいことではあるが、それで良かったのかもしれない。
 
現地で知り合い、毎回のように接近遭遇した広島のFJI夫妻は、まだNZに行ってるのだろうか?NOVAの講師だったアーサーやアレックスはその後、どうしているのだろう?歳月は流れ、2009年の最後の渡航から7年が過ぎた。その間、クライストチャーチ地震があり、懐かしい風景も変わってしまったようだ。それでも、こうやって手記をまとめながら、またいつの日か、自分の手でNZの道を運転する日を夢見ている。
長年、相方だったSAK氏は、その後も変わらず、毎年、単独でNZへスキーに行き続けている。
 
 
Schi Heil !!