コロネットピーク(Coronet Peak)
リマーカブルズ(The Remarkables)
Temple Basin 2007/Aug/14(Tue)
【 テンプルベイスン / Temple Basin 】 2007/Aug/14(Tue)
・未滑走、未訪問、入り口付近まで行く。
ブロークンリバーでの滑走を早めに終えたSAK隊員と私は、テンプルベイスンの下見も兼ねて、アーサーズパス方面へとドライブをしてみた。
73号線の、ブロークンリバーの入り口を出ると直ぐにクレイギーバーンの入り口を通過する。その直後、急な下りのS字カーブを過ぎ、両脇から迫る山並みが開けると、そこに絶景が待っていた。しばし、路肩に車を停めて、その絶景に酔いしれる。特に名勝でも無いこの場所は、地図ではピアソン湖とあるだけだ。
→美しいピアソン湖周辺;Googleストリートビュー
そこからアーサーズパスまでは絶景の連続であった。運転も、適度にカーブが続いて心地良い。
ワイマカリリ河に沿って、一部、崖沿いの区間もあって、変化に富んでいる。太古の昔、この谷間を氷河が埋めていたわけだ。そんな想像をしながら車を先に進める。
アーサーズパス駅を通過してから、道沿いのテンプルベイスンの駐車場を過ぎ、ドブソンタワーを少し越えた付近で下り坂に入る。この付近が、丁度、分水嶺なのだろう。ドブソンタワーから先は下り坂が続いている。
時間も16時を過ぎ、押してきたので、ここらでUターンする。
アーサーズパス駅の周辺は、植生もややカンタベリーとは違う感じである。やはりここはウェストコーストなのだろう。帰りにアーサーズパス駅で記念撮影。夕闇の中、スマイリーズに戻ったのは18時を過ぎていた。
クレイギーバーンを過ぎて、下りのS字カーブを抜けると・・・
そこには日本にはない素晴らしい風景があった。
地図にはピアソン湖・・・とあるだけだ。
こんな素晴らしい景色なのに、特に名勝でもないらしい。
一本道を走る・・・
ピアソン湖周辺が名勝でもない理由がこれからわかる。(この時はまだ知らない・・・笑)
ワイマカリリ河に沿って延々と素晴らしい眺めが続く・・・
もう、どこが名勝だとか言う世界ではない(笑)
アーサーズパス駅を過ぎると周囲の山々が迫って空が少なくなり、険しくなってくる。
ドブソンタワー・・・
いちおう、ここが73号線のアーサーズパス最高地点となるようだ。この先は下りである。
アーサーズパス駅。
帰りの風景、草原を走る道も、また素晴らしい・・・
こうやって、所々で崖の際を走る・・・
変化に富んだ美しい道だといえる・・・
Schi Heil !!
駅前留学とアーサーの家族
【不思議な縁・・・】
「個人旅行に変えたきっかけ」にも書いたが、2004年、私は自分の英語力の弱さを克服するために、駅前留学で有名な英会話のNOVA・六甲道校に通い始めていた。NZ渡航前の7月には10回程度の短期集中講座を受講したが、個人旅行計画を思い付いた渡航後には、本格的に職業訓練給付金コースの受講を開始していた。
海外での個人旅行・・・特にスキー旅行の場合、レンタカーの運転が必須といえる。NZの場合、車は日本と同じ右ハンドルで、道も比較的空いているため、日本人ドライバーにとって運転しやすい国だと言われていた。
しかし、初めての個人旅行計画では、クライストチャーチからトワイゼルまで290km、片道3時間以上のドライブを行う必要があった。いきなり海外でこれだけの運転をしなければならないプレッシャーは相当なものだった。
本格的に職業訓練給付金コースを受講し始めて2か月ほど経過した10月のある日、偶然にも、NZのクライストチャーチ空港から10分程度の所に住んでいるという初老の男性、アーサーが講師として来日した。アーサーは、すらりと背が高く、ロマンスグレーの髪を常に短髪にしており、どこか凛としたたたずまいがあった。講師としては初心者ながら、年の功か?教え方は生徒のレベルに合わせる感じで、他の生徒さんからの評判も良かった。
英会話初心者の私は、講師としては、当時まだ新米だったアーサーのレッスンに組み込まれることが多かった。給付金のコースはグループレッスンが基本であるし、講師が誰になるのか?レッスンの時まで全くわからなかったが、他の生徒さんの都合で、アーサーとプライベート状態になることは、しばしば発生しており、その際、レッスンの話題が私のNZの個人旅行計画になってしまうのは、ごく自然な流れだった。
そして翌2005年の夏、私はアーサーに送り出されるような形で、彼の故郷であるクライストチャーチに向けて旅立つことになる。出発の直前、アーサーは「万が一、トラブルに遭遇した際は、私の自宅を訪ねる様に!家族全員に事情を説明しておいたから。」と、クライストチャーチの連絡先を教えてくれた。何とも有難い話だった。
NOVAでは教師と生徒の個人交流は禁じられていたが、直接、会うでもなし、日本以外の話だから大丈夫だと、お互い考えた。もちろん、万が一の事態は発生せず、アーサーの家族に連絡をすることは無かったのだが、こうした縁もあり、2006年にはクライストチャーチのアーサーの自宅を訪問して、ご家族に会うことになるのだった。
まぁ、ここまでの話は、よくある普通の話ではないかと思う・・・
【別校でのフリートークレッスン・・・】
NOVAのレッスンには、フリートークというチケット制の自由参加型レッスンがあった。少し広めの部屋で、5~10人程度の生徒さんに対して1人の教師が付き、フリートークという呼び名の通り、テーマを決めて英語で雑談したり、場合によっては欧米の子供がするようなゲームをするのである。フリートークは、基本、全国、どの校で参加しても構わないシステムになっており、私は実践を兼ねて、敢えて母校である六甲道校ではなく、帰宅途上の垂水校のフリートークに参加するようにしていた。
それは垂水校のフリートークに参加し始めて3回目ぐらいの頃だったと思う・・・偶然にも、NZから来た若い女性教師とプライベート状態になった。彼女の名はアレックス・・・クライストチャーチから来たという。フリートークでプライベート状態になるのは大変珍しく、この時が最初で最後ではなかったか・・・と思う。
しょっぱなの自己紹介で、私が六甲道校から来ていることを告げると、アレックスはアーサーを知っているか?と言う。私はとても良く知っているよ・・・と答えた。私はその時、やはり同じNZ人同士は情報共有でもしてるのだな・・・と思ったのだが、その矢先、彼女はとんでもないことを言った。
もちろん、次にアーサーのレッスンになった際、この話を伝えたのは言うまでもない。
それにしても・・・である。
事情はこうだった。アーサーは長年、いわゆるブルーカラーの業種に就いて家族を養っていたのだが、息子が父親を真似て、安易にブルーカラーの業種に進もうとするのを見て、自分が手本を示す必要があると考え、50歳でクライストチャーチ大学に入学した。4年後の54歳で卒業し、NOVAの教員プログラムを修了した後、日本に来たのだという。素晴らしい話なので、私が勤めていた会社の朝礼での自己スピーチのネタにさせてもらったぐらいだ。
一方、アレックスは父より先、数年前、職場の休職のシステムを利用して来日し、NOVAで英会話を教えていた。アーサーは娘のアレックスを後追いする形で来日したのだった。当時、六甲道と垂水の両校を行き来していたのは私だけで、いろんな面で偶然が重なり合ってアーサー親子を知ることになったのだ。
【クライストチャーチ空港の・・・】
翌2005年のNZ渡航・・・つまり、人生初の個人旅行の際、クライストチャーチ空港で少し待ち時間が出来た私は、相方のSAK氏に1年分のネタの一つとして、駅前留学の話題とアーサーとアレックスとの不思議な縁を説明していた。私は、SAK氏の「アレックスはどんな感じの顔ですか?」との問いかけに、やや返答に困惑しながらも、欧米人の顔つきを説明するにはどうすれば良いのか?単純だが意外に難しい話について考えを巡らせていた。話題は既に逸れていたのだが、私はアレックスはこんな顔だったなぁ・・・と、南極博物館のグッズショップの看板を眺めていたのだった。
そして帰国後、アーサーとプライベート状態となった時、必然的にNZ旅行の報告会となったのだが、その時、アーサーの口から驚くべき話題が出た。アレックスはクライストチャーチ空港のポスターのモデルである・・・
あれだ!その時、雷に打たれた様な衝撃が走ったのは言うまでもない。クライストチャーチ空港のポスターというのは、実は南極博物館のグッズショップの看板のことだったのだ・・・。
この時、当のアレックスは、既にNOVAとの契約が終わってNZに帰国しており、直接話を聞く機会は2006年にクライストチャーチの実家を訪ねるまで無かった。どうやら撮影は、来日以前の話だったらしい。
この偶然・・・少し怖くて寒気がした。
つまり、アレックスは南極博物館グッズショップの看板娘だったという訳だ。実は彼女、南極博物館のスタッフで、休職申請を出して日本のNOVAで英会話を教えていたのだった。(※)欧米ではこういうシステムはよくあるらしい。
この写真は2006年に撮影したものだ。本人だから似ているのは当然である(笑) ただし、やや雰囲気が異なる。それはアーサーに言わせれば、撮影用にメイクしているからだという。この看板は2009年の最後の渡航の際までは存在していた。
→南極博物館;GoogleMap →Googleストリートビュー
【アーサーの家族を訪ねた時のこと・・・】
この年は、相方のSAK隊員より先にNZ入りし、アッシュバートン、オマルー、ダニーデン、オマラマ・・・と渡り歩いてスプリングフィールドに落ち着いた。
この流れ旅の際、アーサーが生まれ育ったという、ティマル近郊のサウスバーンという集落を訪ねてみた。
サウスバーンは、1軒の教会と4軒ほどの農家がある小さな集落で、アレックスも幼少の頃までここで育ったのだという。
後に知ったが、集落全員がアーサーの親戚だということだった。
十字路の角に記念塔があり、何なのか?アーサーに尋ねると、先の大戦で亡くなった方のメモリアルなのだという。
→サウスバーンの教会;Googleストリートビュー
クライストチャーチ市内のアーサーの家を訪ねる日の朝、私はスプリングフィールドから車を走らせ、日本から来るSAK隊員をクライストチャーチ空港まで迎えに行った。正午を少し回った頃、SAK隊員を乗せた私はクライストチャーチ市内のアーサーの家に向かう。
事前に電話をかけると最初に奥さんが出たが、直ぐに若い日本人男性に代わった。アレックスの旦那さんのKMIさんである。これ以降、この日はKMIさんの通訳にお世話になりっぱなしだった。私とSAK隊員では、NZ人の家庭訪問は難しかったかもしれない。
KMIさんは京都の出身だが、NZが好きでこちらに来て住んでいるのだという。一方、アレックスは日本が好きで日本に行っている。互いに国を交換したら・・・と冗談のように笑っていた。KMIさんも一度だけNOVA垂水に行ったことがあるという。語学力テストを受けると、さすがに「ネイティブ」にはならなかったそうだが、これは一番身近にいる奥さんのアレックスが、一番、意外に感じたのだという。
アーサーの家は聞いていた通り、空港から10分程度の所だった。家の前の道にアレックスが出迎えてくれたので、迷うことは無かった。アレックス、KIMさん、アーサーの奥さん、一瞬だけ息子さん、そして奥さんの弟さんの出迎えを受ける。
パンケーキを頂いたりしながら、3時間ほど過ごしただろうか?かなり細かな話まで出たが、私が直接理解できたのは半分ぐらいだっただろうか?KIMさんの存在無しでは、この訪問は成し得なかったことだろう。
【英会話・・その後】
さて、職業訓練給付金コースは約1年かけて、2005年の年末に、無事、修了。その後、フリートークのチケットを購入して定期的にNOVAに通い続けていたが、アーサーが芦屋校に移動となり、接点が無くなってしまう。
また、2007年10月にはNOVAが倒産し、ちょうどその直前に、フリートークのチケットも使い切ったので、アーサーとはそれっきりとなってしまった。
NOVAではアーサーやアレックス以外にもう一人、インバーカーギルから来たオタゴ大学の学生さんも居た。
もう、かれこれ10年近く前の話である・・・・・
Schi Heil !!
レイクサイドバレスの中華料理
【クイーンズタウンでの夕食】
「個人旅行に変えたきっかけ」にも書いたが、我々は、クイーンズタウンのハーバー近くにある中華料理店、レイクサイドパレス(湖景皇宮酒楼)の常連であった。例外の日もあったのだが、トラブルにも遭わず、無事に一日を終えた締めをレイクサイドパレスで行うのを常としていた。
元はというと、中華料理好きの相方のSAK隊員が、添乗員から聞いて気に入り、通い始めたのがきっかけだという。私の場合、チャーハンや餃子を含め、中華料理を食べる機会は、それまで皆無と言って良かったのだが、次第にレイクサイドパレスでの晩餐がNZ渡航の楽しみとなって行った。
→レイクサイドパレス;Google Map
→レイクサイドパレス;Googleストリートビュー
ところで、日本人がクイーンズタウンを訪れた際、ツアー会社の絡みで必ず行くことになる店が何軒かある。
その一つに中華料理店「メモリアル・オブ・ホンコン」(通称、メモ・ホン)があった。店内は日本人ツアー客で溢れており、価格もほぼ日本と同じ。これでは日本で中華料理店に入っているのと同じで、せっかくのクイーンズタウンも台無しだった。
他に日本料理店「南十字星」もあったが、当然のことながら日本人客でごったがえしており、また、海外で食する日本食の共通の問題として御飯の悪さもあり、一度、割引券を使って行ったが、二度と行くことはなかった。
一方、レイクサイドパレスの場合、日本人客は、大抵、我々だけであった。主体は台湾、中国系の客だったが、場合によっては欧米人だけの時もあったぐらいだ。もちろんオーダーは英語である。
レイクサイドパレスはワカティプ湖沿いにあるリース通りの2階にあった。狭い階段を上って店内に入ると、ワカティプ湖に面した波止場が見える窓際に陣取ることが多かった。この席から見る夜の波止場と、外灯に照らし出された石畳の道が私のお気に入りだった。
→ハーバー側から見た黄昏時のレイクサイドパレス;Googleストリートビュー
前述の通り、一日の締めをこのレイクサイドパレスで行うことがほとんどだったのだが、レイクサイドパレスの中華料理はあっさりしており、毎日食べても飽きなかった。また、値段も安くボリュームも多かった。
忘れもしない2002年の初渡航の際、11時間半の長旅の疲れと、日本とに気温差に体調を崩てしまったのだが、元気を取り戻すきっかけとなったのが、ここレイクサイドパレスの餃子だった。それ以降、普段の生活でも体調不良の時には餃子を食べるようになったほどである。
【NZでの食事】
前述の通り、レイクサイドパレス日本人客は、大抵、我々だけだったが、その一方で、近隣にもかかわらず、同じ中華料理店でも日本人で溢れかえっている店もある・・・。これは実に不自然な話だといえる。
日本人の場合、海外に行っても、常に日本人の集まる場所に赴き、結局、日本人社会のしがらみに付きまとわれている様に思う。これはクイーンズタウン近郊のコマーシャルフィールドを滑っていても感じることであった。
「個人旅行に変えたきっかけ」に書いた内容と重複するが、2004年の時点で、こういった日本人同士のしがらみを、ある程度まで断ち切った状態で、視点を変えてNZという国を見てみたいと考えるようになった。
結果、2005年からNZのカンタベリー各地で食事をすることになるのだが、カフェでのサンドイッチやバーガー類などの軽食に関しては申し分なく、日本よりも手軽で安く、素晴らしい店が多かった。
フェアリーのカフェ、アッシュバートンのバーガーショップ、オマラマのフィッシュ&チップスの店など、とにかく日本より安くて量もあり、美味しい。
→フェアリーのカフェ;Googleストリートビュー
→オマラマのフィッシュ&チップスの店;Googleストリートビュー
→ワイコウアイティのパン屋;Googleストリートビュー
→シェフィールドのパイショップ;Googleストリートビュー
日本に帰って来て、つい不満に感じるのは、(価格に比例して)バーガーの大きさが小さいことと、付いているポテトチップスの量が少ない点だ。日本のバーガーに付いて来るポテトの量はせいぜい小さなジャガイモ1個程度だと思われるが、NZの場合、恐らく3~5個分はあるだろう。日本のマクドで例えるなら、250円程度の値段でビッグマックよりやや大きいバーガーに、皮付きのポテトが3~5倍付いて来る感じだ。日本では想像もできない量である。ザックリと切った大きめのポテトチップスなので、それを一気に食べずに残しておいて、スーパーで買ったチーズと共に翌日の朝食にすることも可能だった。
一方、いわゆるディナーの類は全て外れだったように思う。日本人の胃袋ではあまりにも量が多く、おまけに味加減、火加減など、全てが的を外している感じがした。このディナー類と軽食類の味のギャップは大きく、普通に考えると、軽食類が美味しければ、ディナーもそれなりの味であるはずなのだが、この点については日本の感覚が全く当てはまらない。例えるなら、日本料理の麺類やお好み焼きは美味しいが、定食や懐石料理は最悪・・・という具合になる。たまたま味の悪い店にばかり行ったのかもしれないが・・・。
また、NZに限らず、海外で食事をする場合、オーダーの際に困った経験をされた方は多いと思う。メニューは大抵の場合、英文で記述されているだけで、日本のレストランのような食品サンプルなどは無い。せめて写真だけでもあれば・・・と思う。注文したイメージと違うものが出てくることもしばしばで、ある意味、「食事」はギャンブルであった。
その点、中華料理や韓国料理の場合は、メニューに写真が添えてあったり、餃子やチャーハンなど、物が分かっているので安心して注文できた。(日本食は御飯がまずいので対象外・・・)
結局、2005~2009年まで、散々、あちこちで食べて回ったのだが、クイーンズタウンのレイクサイドパレスの中華料理は、晩餐としては申し分なかったという結論になる。
番外として、オークランドでの韓国料理とギネスが飲めるパブが当たりだった。韓国料理に関しては、やはりSAK隊員が添乗員に聞いて開拓したものである。パブはその途上で発見したものだ。
その日、オークランドでは、ラグビーのオールブラックスとオーストラリアン・ワラビーズとの因縁の試合が行われていた。市内にはオーストラリアから訪れたワラビーズの応援団の黄色のユニフォームで溢れかえっており、たまたま、道端にあったギネスの看板につられてパブに入ると、全員がテレビ中継に釘付けとなっており、試合展開に一喜一憂していた。ギネスが飲めるパブで、ラグビーの因縁の対決を見る・・・という、まさにNZ文化の一端を垣間見た気がしたものだ。
→オークランドの韓国料理店;Googleストリートビュー
【NZの食材、スーパー】
次にNZのスーパーマーケットで感じたことを書いてみようと思う。
食材などのレパートリーの多さ、細やかさは、やはり日本のスーパーが格段に上だと思う。NZのスーパーに置いてある食材の種類は日本よりやや単純な感じがする。
一方、チーズを始めとする乳製品のレパートリーはNZの方が格段に上だと言える。値段が安く、とにかく量が多い。密度が違うというか、重い・・・。
チーズは恐らく、日本の1/3程度の価格ではないか?日本のプロセスチーズ約150gは、だいたい350円前後で販売されているが、NZの相場は1kgが10NZ$(700円前後)のようだ。帰国後、不満に感じるのはバーガー類と同様である(笑)
写真は、日本でも定番のケロッグのコーンフレークと、右は日本では珍しいWeet-Bixである。コーンフレークは桁違いの量ゆえ、毎回、NZで土産として買って帰った。日本では一箱180gで350~400円ほどするのに対し、NZでは一箱310g入りで2.7NZ$。現在のレートで197円である・・・
Weet-Bixは小麦フレークを固めたもので、牛乳をかけると一瞬でオートミールの様になる。塊のまま食べることも可能だ。こちらも土産として買って帰るようになった。
一方、量が多過ぎて、ジャムなどは旅行期間中に消費できず、日本にもって帰って来ることが多かった。
肉の安さは書くまでも無いだろう。ヨーグルト、牛乳・・・ワインetcしかりである。
シーズニング(調味料)の種類も豊富なので、牛肉をスーパーで買って、モーテルの200Vの電気コンロで焼けば、上等のステーキがいとも簡単に出来上がる。
パンも安いが、日本のような厚切りは無く、全て12枚切りぐらいの薄さである。少し困るのが、トースターで焼く時に焼く何枚が増えることである。全粒粉小麦のパンがポピュラーなので、食物繊維の摂取に関しては問題が無かった。
仮に、NZの食材をNZの価格で販売する店が自宅付近にあれば、食費は3割程度に抑えることができるようになるのではないだろうか?
2009年以降、行くことも無くなって久しいNZだが、食材だけでもNZ気分を味わいたいものだが、そうもいかない様である。
Schi Heil !!
思い出のバス移動(2004年)
【思い出のバスの旅、2004年8月16日】
個人旅行に変えたきっかけにも書いたが、NZ渡航も3回目となった2004年も終わり、国内線でクイーンズタウンからオークランドに移動する朝のことである。クイーンズタウン空港に着くと何やらざわついており、人が溢れている。なんと、前夜から降り始めた雪の影響で、フライトが軒並みキャンセルとなっていたのだ・・・
写真はビデオ映像よりチャプターしているので、やや画像が悪い。
ことごとく便は欠航で、窓口は長蛇の列・・・
我々の乗る便も残念ながらキャンセル・・・
正午を過ぎて、やっとクライストチャーチに向かうチャーターバスに乗る。こんな時間で間に合うのか??
走り始めてから2時間を過ぎた頃、不思議な光景が・・・
リンディス・パス(峠)である。
景勝地として有名な場所である。
この日は積雪で、独特の雰囲気となっていた。
平野の向こうに、突如、盛り上がる丘・・・
氷河の堆積物が作り出した不思議な世界である。
そして、ここにも奇妙な風景が・・・
クレイクリフという奇妙な形の崖だった。
後に、この道も何度かドライブすることになる。
平野の向こうに、突如、盛り上がる丘・・・
氷河の堆積物が作り出した不思議な世界である。
そして、ここにも奇妙な風景が・・・
クレイクリフという奇妙な形の崖だった。
後に、この道も何度かドライブすることになる。
→Googleストリートビュー
真っ平らな平原の向こうに山脈が・・・
走り始めて3時間。オマラマに到着。トイレ休憩も済んで、
その後、このオマラマは3回ほど訪れることになる。
まるで、海の向こうに見える島のよう・・・
夕方、アオラキ・・・Mtクックの雄姿が
→Googleストリートビュー
ラッキーにも「良き羊飼いの教会」が見れた・・・
フェアリーという町の近くで日没となる。
18時、トイレ休憩でジェラルディンに到着。
真っ平らな平原の向こうに山脈が・・・
走り始めて3時間。オマラマに到着。トイレ休憩も済んで、
さぁ出発という時、何と!バスが故障・・・あり得ない。
代替えバスが来るまで更に待つ。
それでも不思議と焦る気持ちは無かった。
その後、このオマラマは3回ほど訪れることになる。
2006年には、ここのモーテルで1泊した。
まるで、海の向こうに見える島のよう・・・
夕方、アオラキ・・・Mtクックの雄姿が
プカキ湖の向こうに見えた。
→Googleストリートビュー
ラッキーにも「良き羊飼いの教会」が見れた・・・
フェアリーという町の近くで日没となる。
一面の雪景色と共に、地球の影が何とも印象的だった。
普段、この界隈で麓に積雪があることは少ない。
フェアリーもその後、何度か訪れることになる。
2008、2009年とそれぞれ1泊。
18時、トイレ休憩でジェラルディンに到着。
Schi Heil !!
The Remarkables 2002/Aug/14(Wed)
【 リマーカブルズ / The Remarkables 】 2002/Aug/14(Wed)
【時間】 AM 10:30~PM 03:30 【天候】晴れ・曇り 【気温】暑くも無く、寒くも無く、普通に感じた
【用具】サロモン、ディナスター・スキークロス9 【リフト待ち】数分 【同行者】SAK隊員
【ゲレンデ状況】4日ほど続いた雨で湿雪。非常に重い初の海外スキーで精神的に疲れた。
到着の晩、移動の疲れと、体温調整が上手く行かず風邪気味となる。翌日は各スキー場ともクローズで、休養日となった。フォーミングしたブーツも、新しいスキー板の感覚も、ゲレンデコンディションも全くの未知のままでの滑走は神経が磨り減る。
・・・とは言うものの、当日の朝は快晴で、バス待ちも無く、ラッキーなスタートであった。
すぐさま滑り出す。左側のエリアを数本滑って昼食。
ゲレ食のメニューもわからず、英語でオーダー、支払い・・気が休まらない。しかし、バーガーとマフィンを頼んで無事終了。レストハウスも割かし空いていたが、外で食べる。生バンドが演奏の準備をしていた。とても上手だと感じたが、このレベルであればゴロゴロ居るのだろう。奥の深さを感じた。
ゲレンデの印象は圧雪部分が少ないと言う事だった。
主要な通路だけを圧雪しているような感じで距離も長くなく、また、地形がもろに出ているので、うねりがあり、滑り難い。これなら、八方のリーゼンの方がよっぽどましである。
しかし、その考えはNZでは間違いだった。回りに見えている素晴らしい風景・・・そこにゲレンデがあるという事実に気付いたのは午後になってからだった。
NZではカービングでカッ飛ぶよりも、未圧雪斜面をオールマウンテン系のスキーで滑るのが合っているように思う。さらにストックのリングは大きめの方が良い。ストックを突いても潜ってダメだった。
ずらしを多用してゆったりと滑ると感触は良かった。
翌日のヘリスキーを期待して、早目に帰途に着く。ここでも早目のバスでホテルまで戻ることが出来た。
Schi Heil !!